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旅日記


2003年08月28日(木)
ニャチャン
晴れ
- 酔っ払いの独り言 -

 
 シンチャオ。

 今日も「おとうさんカフェ」に飲みに行きました。つーか、いつもなんだけれども。

 さて、明日朝、山形の"松村さん"、大阪の"ノマ君"、"一休さん"の3人がニャチャンを発つってことで、今夜はとても寂しい気分です。彼らとは、おとうさんカフェ初日から様々なことを話したり、滝に行ったり、昨晩は朝方まで海で飲んだりと、共にたくさんの時間を過ごしていたのでした。松村さんの強引な誘いには嬉し驚きだったし、ノマ君には立派なコンサルタントになってほしいし、一休さんには立派な医師になってほしいし。特に一休さんにはぜひ医師になってもらいたいです。昨晩彼のネタを一つ見ました。それは、「ズボンを穿いたままでおしっこをする」という荒業でした。何やら普通に立ち上がったままで遠くを見ている彼の姿が滑稽でした。次第にズボンが湿ってきて、すそから液体が滴ってきて、
「あら!ズボンはいたままやった!」
そんなわざとらしいボケ突っ込みも非常に笑えました。すぐに海に飛び込めば良いって好条件もあったと思いますが、「大阪人の心意気」を見たような気分でした。彼は大学の4回生で、これから医大を受けようと準備しているらしいのですが、こんな人が医師になったら楽しいよね。

 さて、俺って寂しがり屋なんだよね。こどもの頃(6歳くらい)のことを思い出します。うちのおやじは大層の釣り好きなんだけれども、おやじが一人で釣りに行ってしまうと、そのときのなんと寂しいことか。「なぜ、今日は俺を誘ってくれないのだ」。隣の部屋から聞こえてくるおやじの声を聞きながら、寝室で涙したことを思い出します。そんな時、俺は「連れて行って!」とは言えないこどもでした。何か自虐的なところがあって、「へん、良いや良いや。俺がいたら迷惑なんだよね」。涙を拭いた後何気ないような顔をして、「今日釣りに行くの?いっぱい釣ってきてね」なんて言葉を発するこどもでした。少し話がずれました。

 今晩のような別れのときにいつも思うことが、「出会いなんか訪れないほうが良いのではないの?」ってことです。出会いなんてものはほんの些細なことであって、出会った瞬間には特に強い感情もわき起こらないのだけれども、何かの機会を共有して、何かの想いを共有して、そのうちに仲良くなってしまって、そうなると別れがとてもつらくなってしまうのです。そして、「こんな寂しい想いをするくらいなら、最初から会わないほうが良かった」とさえ思ってしまうのです。人間には、それぞれ自分の住むべき場所、役割があります。「そんなものを飛び越えて、いつまでも一緒にいることは出来ない」、そんなこともわかります。ですが、そんな理屈抜きに、寂しさを感じてしまうのです。私は、「人と出会うこと」が決して必然のことだとは思いません。全てが偶然の中にあるのだと思います。出会う人の中には気のいい人も、そうでない人もいますが、俺はたくさんの気の合う人々と出会っているんではないかなと感じます。幸せだと感じます。気の合わない人々のことを自然と忘れてしまっているってこともあると思います。

 「旅行すること(もしかしたら人生もかもしれません)は、いろいろなもの、人との出会いと別れがその全て」とも言えるのかもしれません。景色との出会いであったり、何やら心地よい雰囲気との出会いであったり、何に増しても、人との出会いがたまらなく楽しいです。そしてそれらとの別れがたまらなく寂しいです。現地人、旅行者、いろんな人々との出会いがあって今旅行を続けられている私がいるし、少しずつ変わり行く私がいるのだと思います。一方で、様々な別れがあって、それもまた私を変えていっているのだと思います。

 ただ、ここまで考えてくると、人には多くの出会いがあって、別れがあって、様々な想いを抱いて…、そんなことが、果たして意味のあることなのかどうか…。そんなことを考えてしまいます。

 結局、行き当たるところは、「人間は何のために生きているのでしょう」、そんな疑問です。世紀を超えて誰もが抱く疑問であり、ここに書くのも恥ずかしいような疑問ですが、酔っ払っているんで、あえて書きます。何で私らはこの世界に存在して、日々をすごしているのでしょう。いや、何のために生かされているのでしょう。自然界にあっては百害あって一利無しの人間たち。子孫を残して、生活を繰り返していくだけの存在です。そんな我々が、何故この世の中に存在するのでしょう。

 私には、「この世界のなかで人間として生まれ出てきた」ということついて、何か意味のようなものがあるのではないかと考えます。我々には役割と言うか役目というか、そういったものがあるのだとの意識があります。総じて、人類が存在するということは、何かに対しての役割を果たしているのではないか…。そんなふうにも感じられるのです。ですが、音楽を聴いて、海で泳いで、酒を飲んで、こんな私の存在が、一体何のためになっているのか。はっきり言って、全く持ってわかりません。

 なんだかなぁ。

 ですが、こんな疑問が解決する見込みは到底ありません。だから考えるのも止めにします。それが賢い方法です。こんなことを考えつづけていれば、行く末はとても偉大な人物か頭の混乱した人物か、どちらかしかないような気がします。いずれの存在にもあこがれる自分がいるのは否定できませんが、現在のところは普通に幸せな人生を全うしたいとの思いが強いです。そう考えると、行き着くところは、やはり目の前のことに右往左往しながら、その時々で悩み、物事を解決し…。そういった生き方が私の選ぶ道ではないかと考えるのです。生き方の基本としては、目の前にいる人を悲しませたくないし、目の前にいる動植物に喜んでもらいたいし。私にとっては、そういったものが人生そのものなのかってな感じです。

 話がえらく飛躍してしまいましたが、偶然にも自分と出会った人々や動植物には愛を注ぎたいし、自分にそれ以上の何ができるって言ったら出来ることは無いし、そうやって人間としての生を全うして、そのあとは何やらわからないけれども…。

 死んだ瞬間、「あ、変な夢見てた…」って、夢から覚めるのかもしれませんし、いや、何も無いのかもしれません。ただ、何かわからんけれど、精一杯生きていきたいなぁって思うのです。中途半端な夢ではなくて、満足に完結した形で夢を終えたいのです。起きた瞬間、もう一度見たくなるような夢だったら、俺の人生は最高だったのではないかなぁと思うのです。

 ここで終われば少しいい感じなのかもしれませんが、さらに一段落書きます。

 おとうさんカフェの"まっちゃん(シェフ)"、"あきさん(シェフの彼女で、たまにお手伝いに来ます)"によると、滝で披露した私の「Tシャツ切れ&パンツ切れ」が、滝パフォーマンス部門において今年度の最優秀候補としてノミネートされているようです。話を聞いて、何やら嬉しいです。特に「5時までかかって準備した」ってのが良かったみたいです。何の部分でも良いですが、他人から評価されるってのは嬉しいことですね。これも私の人生における薬味のようなものです。私の人生にちょっとした刺激を与えてくれます。

 いや、生きているって楽しいなぁ。

 気分悪いんで寝ます。おやすみ。
 

- 本日の出費 -

13,000D(ベトナム・ドン)=\100
15,500D=USD1

- 移動費 -

From : To : 手段 : 値段 : 所要時間 :
 

- 飲食費 -

コーヒー * 1 (朝食) 4,000D
ラーメン * 1 (昼食) 6,000D
ビール * 2 (おやつ) 10,000D
ビール * 3 (夕食) 15,000D
あたりめ (夕食) 5,000D
 

- 雑費 -

COTAB (たばこ) 5,000D
宿代 67,500D

更新地 : Nha Trang( Vietnum )

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