旅日記


2001年6月16日
ホア・ヒン
晴れ

-すべきことな無く…
しなければいけないことも無く…-

どこにも行っていないので、
写真なし


 朝からすることが無い。何も無い。しなければいけないことも何も無い。
朝の海、昼の海、暮れ時の海、深夜の海、(舞の海?)、海を見る。いろいろなことを考える。
おちゃらけはここまで。

 今日、ある方からメールを頂戴した。その方の親友のお子さんが、病気でお亡くなりになられたそうだ。15歳だったとのこと。メールには、「そのお子さんが、1歳の時、小児ガンになり、15年もの間、入退院を繰り返しながら病気と格闘してきたこと」「昨年9月には、長期の放射線治療の影響で、白血病を患ったこと」「この4月には高校に入学し、通学することを楽しみにしていたこと」「退院したら、バンドとサッカーをやりたいと笑顔で話していたこと」が書かれていた。なんだか、彼と面識のない私まで、涙が出そうになった。とても、つらい。

 この件について、ここに書くことは、少しはばかられるような気持ちもあったのだが、そのお子さんのご冥福をお祈りするとともに、その子の生きた証のようなものを、よりたくさんの場所に、よりたくさんの人の心に残しておければと思い、あえて、書いてみた。

 人間の生死、どのような基準で、その決定がなされるのか。

 がんばって、がんばって、幼いながらも、健気にがんばって、生きたくて、それでも亡くなってしまう子供がいる。
 かたや、大罪を犯した”ある人”は、警察の捜査を逃れ、事件は時効を迎える。ある人の心には、なにか黒い想いが残るかも知れない。それでも、生きている。ある人は生活している。生きている以上、希望もあるだろう。ある人が能天気な人物ならば、「ラッキー」くらいに思っているのかもしれない。

 あぁ、神様、もしいらっしゃるのでしたら、なぜこういった選択を…。
 あまりに不公平ではないですか。あなたのこの選択には、どんな意味があるのでしょう。
 その子の周りにいる人間は、あなたのこの選択を、どのように捉え、受け止めるべきなのでしょう。

 考えれば、考えるほど、ますます分からなくなってしまいます。

 彼の死、その事実を突きつけられた、周囲の人間達。これから、どうすればよいでしょう。私は、こう考えました。つきなみな考え方だと思いますが、彼のことを常に心に宿し、生活していく。これしかできないであろうし、またこうするしかないような感じがします。彼の生きた証は、周囲の人間の胸の中に、しっかりと残されています。そして、そんな思いを胸に、今後は、彼の分まで充実した生活を送る。彼のためにも、そうしなければいけないような気がします。

 あぁ、神様、もしいらっしゃるのでしたら、なぜこういった選択を…。
 あまりに不公平ではないですか。あなたのこの選択には、どんな意味があるのでしょう。

 「生物学的に言えば、優位なほうが…」「自然淘汰が…」とか、ドライな考え方ができる人もいるでしょう。しかし、私にはそれはできません。

 私は、そのお子さんのことを存じ上げないのですが、陰ながら、ご冥福をお祈りしたいと思います。彼の生きた証は、私の心にも宿りました。
更新地:ホア・ヒン(タイ)

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